【偽善上等!】自分のために善行をする

今回の話題は「情けは人のためならず」に類するお話です。肩の力を抜きつつ、周りの人にも好かれていく。そういう人間になれるよう、私が最近心がけていることです。

話題は大きく分けて、以下のリストのようなものになります。

  • 自分のために善行をしよう
  • 善意を押し付けていませんか?
  • 各宗教に共通する、互助の仕組みと動機づけ
  • 偽善という批判について

自分のために善行をしよう

私はたまに善行をします。具体的には、道端のゴミを拾ったり、列車の座席を譲ったりといったっことです。思ったより例が浮かびませんでした。

こうした行為をするときは、やったほうが自分の気分がいいな、やらずに思い出したとき気分が悪くなりそうだなという気持ちになっています。社会のためになる、相手を助けるといったことはあまり考えません。あくまで自分本位です。

善意を押し付けていませんか?

「あなたのためにやったのに!」「優しくしてあげたのにどうして報われないんだ」そう思ったことはありますか。私もかつて、人間関係や環境保護などでこう思い、心を痛めたことがありました。

上記のような思考は、意識的、無意識的に善意を押し付けていることによって発生します。自らの施しにリターンを期待するからこそ、それが得られない時に憤りを感じるのです。

各宗教に共通する、互助の仕組みと動機づけ

多くの宗教で、周囲や貧しい人々に自らの財産を分け与えたり、愛を注ぐ行為が推奨されています。隣人愛、喜捨、ザカートなどと呼ばれます。これらの行為により、原罪を贖ったり、金品への執着を捨てたり、来世で救済を受けたりすることができるそうです。

洋の東西を問わず、善行に動機づけがなされている点は興味深いです。健全な社会の維持に必要なのでしょうか。いずれも、利他的行為の結果、自分にメリットがあるような仕組みになっています。

真の意味で聖人であり続けられる人は少ないのではないでしょうか。自分が救われるために必死に慈善活動をしている人がいるかもしれないと思えば、多少は心が楽になる気がします。

偽善という批判について

偽善という概念が好きな方を、それなりに見かける気がします。有名人の寄付が売名の偽善に過ぎないとか、やらない善よりやる偽善だとかいった言説です。被災地に千羽鶴を送る行為も槍玉に挙げられがちですね。

偽善のそしりを受けるパターンには、以下のようなものがあると思います。項目ごとに考えてみます。

  1. 当該行為が、対象にとって不利益である
  2. 売名、節税など善行を行った人物に利益がある
  3. 過去、別地域などの同様事例に関心を示していなかったのに、いきなり活動的になった

1つ目は、端的に言えばありがた迷惑です。千羽鶴のような事例ですね。これについては、コストや労力が正しく使われていないために起きた批判なので、謙虚に受け止めて改善すればいいと思います。

2つ目については、動機が何であれ善行は善行ですし、本人もみんなに好かれたくてやってるわけではないでしょう。この手の批判は妬み嫉みから生じたものが大半でしょう。気にしなくていいです。

3つ目は一見もっともらしいですが、世の中のあらゆる事象を把握して、全てに適切に対処できる人間など存在しません。人はその両手に抱けるものしか守れません。気力と経済力の範囲で活動すればよいのではないでしょうか。

したがって、私が改めた方が良いと考える偽善は、1.のありがた迷惑事例のみです。世の中は偽善で回ってますし、自分を善だと疑わない人は謙虚じゃないと思います。

まとめ

私の善行に対する考え方をまとめてみました。以前から頭のなかにぼんやりあった概念でしたが、いざ文章でまとめてみると難しいです。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。同じような考え、異なる捉え方をする方もいらっしゃると思うので、ご意見をいただけると楽しくなります。

それでは、またいつか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です